マリンスノウ 時折跳ねる細かな飛沫が、緩やかな風に混じって手すりを掴む手の甲や頬に降りかかる。 潮の匂いと感じる冷たさ。寒いとは思わなかった。 洋上はのっぺりと暗く、空と海の境すら見えなかった。現在地はどの辺りなのだろうかと、ぼんやりと思う。船のエンジン音と水面をかき分続ける平坦な音を、船体に波頭がぶつかる音が不意に横切る。静かな、光のない深夜。 船上から洩れる灯りで浮かび上がる、船の周りの水面が黒く波を立てるのを見ていた。 船の軌跡を引いて波立っているのはみなもだけで、水底へと向かう海中はきっと穏やかな静寂なのだろう。 冥い水底へ、沈んで、沈んで、千切れて、散って、溶けて。雪のように。 そういえば、深海へ沈むプランクトンの死骸はマリンスノウと言うのだったか。そうして深海魚の餌になって、消えてなくなる。 少し大きな波が船体にぶつかって、飛沫が上がった。甲板が揺れると同時に顔に冷水のミストを浴びせられて、我に返る。 ──逃げるな。目を背けるな。前を見ろ。 繰り返し言い続けた自分への自戒を今また繰り返し、上ってきた苦い笑いに唇を噛みしめた。今更何をどうしろというのだろう。逃げる相手もいないというのに。 貴方はもういない。その理想を押しつけられることも、共に生きることを求められることも、もうない。 私は自由だ。貴方がそう仕向けた。全てから解放されるように、と。 そして一人になった。 いつでも、どんな時にも私を見ていたあの眸は、もう二度と私を映さない。それがこんなにも─── 息苦しさを覚えて胸を押さえる。肋骨が数本折れているとハワードが言っていた。だからだろう。足許がふらつくのも右足にヒビが入っているからだ。 全く、何故こんな身体で死ななかったのだろう。私は何故、こんな場所に立っているのだろう。 それも貴方が望んだことか。私の意思など考慮もせずに、そうあるべきと勝手に理想を作り上げて、望むように私を、全てを動かしていく。 あれほど私に執着しておきながら私を放り出して、今更どうしろというのか。 貴方はどうしてそんなに身勝手で、残酷で……優しいのだろう。 「ゼクス」 声がして、手すりを握りしめていた手から力を抜いた。 「部屋に戻れ。まだ身体は完治していない」 どこか機械的な感情を窺わせない少年の声。振り向かないままで、構わない、と答えた。 「一人にしてくれないか」 「部屋でも一人になれるだろう」 「海風にあたりたいんだ」 「ゼクス」 つかつかと歩み寄ったヒイロが、手すりから離さない手を掴んだ。振り返る。迷いのない、強い紺碧の眸。 「何を見ている」 「……なにも」 掴む手が、強さを増した。 「ゼクス」 手すりから引きはがし、その手を引かれて否応なく間近で向き合わされる。まだ頭一つ低い位置の双眸が、射るように見つめてくる。闇の中、緋く燃える炎のように熱と色を持って。 「お前が誰かに何かを望むように、お前にも望む者がいる。お前は一人ではないことを忘れるな」 「リリーナの、ことか?」 たった一人残った肉親のことが気に掛からない訳ではない。だが、妹は私よりずっと強い。道筋は作ったつもりだ。この先枷にしかならない兄などいなくとも、あの妹ならしたたかに生きていける。 ヒイロはさらに踏み込むように、見上げてきた。 「俺もだ」 咄嗟に意味が飲み込めずに、見返した。彼は少し苛立ったように眉を寄せた。 「俺もお前に望んでいる。生きろ、ゼクス」 船体に波が砕けて、船が揺れた。よろけたところをヒイロに抱えられたその上に飛沫が降ってきた。 冷え切った無数の雫を浴びながら、抱えられた腕の熱さを感じた。 生きている、という証の熱。 「戻るぞ。ここにいたら体調が悪化する」 有無を言わさず抱えられたまま船内へと連れ戻される。空も光もない暗闇をそれでも眼に追いながら、彼が甲板のドアに手を掛けた時、呟いた。 「……海の底なら眠れると思った」 ヒイロは立ち止まり、きっぱりと私を見あげた。 「生きろ、ゼクス」 「そうすることに意味はあるのか?」 「理由が必要なら、俺が理由になる。俺がそう望んでいる、ゼクス」 少年の必死さが少し可笑しかった。そして素直にあたたかいと思った。 立ち続けた身体がぎしぎしと軋んでいた。随分前から、身体は限界を叫んでいたらしかった。そのことにようやく気付く。 あの空から流星のように流れ落ちて5日が過ぎた。搭乗した機体は燃え尽きることなく、漂流していたところをハワードとヒイロに拾われた。あちらこちらを負傷した身体は、それでも鼓動を止めることはなかった。 意識が戻って、それを初めて知った。 まだ生きている。貴方の存在しない世界を。 それが酷く不思議で、苦しかった。 Back |